私が幼少の頃から、兵庫のおんちゃんと呼んでいた叔父が一昨日に亡くなった。
本日2月15日の葬儀には参列できそうにないため、昨日の通夜へは若干の遅刻ながらも間に合って焼香を上げてきた。
享年90歳、天寿を全うしたと言っていいと思う。
私が幼い頃、具体的に何歳だったのかは肝心な肝心なところは記憶に残っていないのだけど、それは平日の昼間が多かったから、きっと小学校に入る前だったと思う。
亡くなった叔父は機屋(はたや=織物を織る仕事)を営んでおられて、私の母(叔父から見たら妹)も手伝いに行っていたのだけど、いつも決まった時間に車で迎えに来て、幼かった私を連れて出勤していた。
ボンネットが僅かに飛び出た、前に3人が乗れるトラックで、その中央に座らせてもらえるのが大好きだった。
私の母のことを名前で呼び捨てにし、母も「にいちゃん」って呼ぶもんだから、私も自分のお兄ちゃんだと錯覚していた時期があった。
何か話すときは、必ずユーモアというか笑みを取りに来るエッセンスが紛れ込まれていて、人見知りの激しかった当時の私でも簡単に打ち解けた。
カシャコーン、カシャコーンと、おおよそ 1Hz の規則正しい機械音が鳴り響く機場(はたば=織る作業場)の、右奥やや手前の小部屋が母の担当場所。
木製のシャフト(シャトルにセットされて織機で使用される)に原糸を巻く機械の前で、シャフトの交換をするのだ。
何十本ものシャトルに同時に糸を巻ける機械が小部屋の中央に鎮座していて、糸が巻き終わると自動的に手前に滑り出してくる仕組みになっていて、それを見つけては糸を切ってシャフトを取り出して空のシャフトに糸をセットして機械に戻す、という作業。
母の身長は 130cm? くらい(小学校の低学年くらい)と極めて低かったので、母が作業しやすいように床が上げてあったと思う。
小さかった私にもシャトルに手が届き、朝から夕方まで一緒に糸巻きをしてるのが大好きだった。
織機ほどの強烈なモーターで駆動されているわけではないものの、一応は回転系の機械なので、横着するとトンでもない事故になるのだが、時々見回りにやってきた「おいおい、危ないから気をつけろよ(実際には強烈な方言で)」って注意するだけだったので、私の「手伝い」を許してくれていたのだと思う。
機場には十何台もの巨大な織機が並んでいたんだけど、昼ご飯の時間には織機を止めるので止まった機械を観察に行くのが大好きだった。
穴の空いた幅広のテープ(無限ループになってる)が機械の上の方にセットされていて、きっとそれが機織りパターンの設計図みたいなものなのだろう、機械が動き出すとそのテープも一緒に動いていく。
織機たちは天井近くに備え付けられた長いシャフトとベルトで繋がっていて、そのシャフトを巨大なモーターで回すことで一斉に動く仕組みだった。
先の糸巻き器が「最悪で指の切断」だったのに対して、これらの織機は「最悪で胴体の切断」という風だったので、機械が動いている間は決して近づいちゃいけないのだったけれど、トイレに行くときだけはわざとゆっくり歩いたもんだ。
シャトルが左右に高速移動しながら生地が少しずつ排出されていく。
先の紙テープはカタカタと同期して回ってる。
全てが新鮮でワクワクの毎日だった。
いつから手伝い始めて、いつで手伝いに行かなくなったのか、そういう時間軸の記憶は見事に吹き飛んでいるのだけど、40年前後たった今でも機場の間取りを含めて完璧に色までも蘇ってくる。
機場に入って織機1台を通り過ごしたところで左に曲がって、突き当たりを左に曲がった先が糸巻きの部屋。
日が暮れてくると作業は終わり。
朝と同じ3人乗りトラックで家まで送って貰う日々が、どんだけ続いていたのか、そこは思い出せない。
「おーい、そろそろ仕舞いにしようか(実際には強烈な方言で)」
いちお親戚ということで通夜後の食事に呼ばれた。
兄弟の多い世代なので、その子供も多いし、その孫は更に多い。
控え室みたいなところには 30人 くらいいただろうか。
ちょうど向かいに、おんちゃん のお孫さんが着座された。
私が記憶している機場の様子とかで談笑が弾むうちに、不思議なことが起きた。
私は、彼を自分の年上だと錯覚して喋っていたのだ。
後に31歳と聞いたときにハッと我に返ったのだけど、確かに見た目も明らかに30代で50代ではない。
だけど、自分は年下だと錯覚していた。
機場で手伝っていたのは、つい10年か20年くらい前の出来事だったと思い込んでいたから。
まさか彼が生まれる前の出来事を喋っていただなんて思いもよらなかった。